■特集009 石にまつわる話「 中国編 その2 山口 」
人間なんてちっぽけな存在(3億年の営み)

 秋吉台は、海抜420mという、ちっぽけな山です。こんなちっぽけな山も地球の歴史の中で自然が作りあげた大傑作だということを考えなければならないと思います。
 3億年もの昔の海中で、莫大な数の生物たちが作り上げた岩を基盤として、以後秋吉台上で驚くべき石灰岩の自然が展開していきました。過去秋吉台の自然の中で起こった歴史を一枚一枚ひもといていくと、長い歴史の結果、今日の秋吉台・秋芳洞が生まれたことが判り、人間もその長い歴史の一コマの一員であることが理解できます。ところが、この人間は、文明を持つことによって自然から離れて生活をし始め、文明を維持し、快適な生活を謳歌したいがゆえに、何億年もの年月が造った自然を、平気で壊したり、汚したりしています。この時期に自分と自然との関わりをもう一度考え直すという意味で秋吉台・秋芳洞を見直してみたいと思います。

【秋吉台】…ラピエ・ドリーネ・ウバーレ・ポリエ
 本州の西の端、山口県の中心部より、やや西よりの位置に日本最大のカルスト大地が広がっている。秋吉台の雄大な景観は、石灰石の岩肌が露出するラピエ、月のクレーターのような凹地のドリーネやウバーレ、ポリエなどがあり、異国的な雰囲気をかもし出している。

“カルスト地形どうしてできるのか”
 カルスト地形は石灰岩が水に溶かされてできます。石灰岩は主に炭酸カルシウムという成分からなり、石灰岩台地に降る雨は空気中の炭酸ガスをたくさん溶かしこんで、弱い酸性の水になります。この水が、炭酸カルシウムでできている石灰岩にふれると化学反応をおこし、石灰岩は少しづつ溶かされていきます。カルスト台地の地表には、石灰岩の柱(ラピエ)、ドリーネ、ウバーレ、ポリエといった凹地(くぼ地)ができ、また地下には石灰岩の洞窟である鍾乳洞ができます。

[ドリーネ]
 台上に月のクレータのような凹地がたくさんあります。これをドリーネと呼んでいます。
ドリーネを上から見ると円形やだ円形をしていますが、横から見ると、皿型、井戸型、バケツ型、ロート型などの形をしています。しかし、ロート型が一番多いようです。ドリーネは、石灰岩の割れ目に雨水がしみこんでいく時、その入口をだんだん溶かし、大きくなってできる場合と、また洞窟の天井が落ちてできる場合もあります。秋吉台には約5000のドリーネが発達しています。

[ウバーレとポリエ]
 ドリーネが二つ以上くっついて大きくなったものをウバーレといいます。さらにウバーレがどんどん大きくなり、その底が地下水面までさがると、平野となり、人が住むようになります。この大きな凹地をポリエといい、ウバーレは台上のところにみられますが、ポリスは台の周辺に発達しています。
【秋芳洞…あきよしどう】
 秋芳洞は、秋吉台の麓にある広谷ポリエの奥に、ぽっかりと口をあけた東洋一の大鍾乳洞です。この鍾乳洞は今から600年くらい前に、地元の人々によって発見され、瀧穴と呼ばれていました。明治38年になって、イギリス人エドワード・ガントレット氏により洞内の探検・調査が行われ、国内をはじめ海外まで紹介されました。
[鍾乳洞はどのようにしてできたのでしょうか]
 雨水は、地上に落ちる途中で空気中の炭酸ガスを含み、秋吉台上に降ります。台上に降った雨は、地殻変動などで石灰岩にできた多くの割れ目に沿いながら地下にしみこんでいきます。この時、雨水に含まれているわずかな酸によって、石灰石の割れ目は少しずつ溶かされて水路となり、しだいに大きくなります。また地下水は小石や砂などを流し、地下水位がさがるにしたがって洞窟は下へ下へと溶かされたり、浸食され、大きな空洞となっていきます。洞窟がしだいに大きくなると天井や壁が崩れ落ちて、さらに大きな洞窟になります。大きな洞窟ができて、さらに地下水位がさがると、洞窟の発達は止まり天井や壁・床面に鍾乳石や石筍、石灰華などの二次生成物ができはじめます。

[秋吉洞内の二次生成物]
 洞窟内の天井や壁、床面には色々な形をした鍾乳石や石筍・石灰華などがみられます。これらは一体どのようにしてできたのか。秋吉台に降った雨水は石灰岩を溶かしながら割れ目を通って、洞窟の天井にしみ出してきます。石灰分と炭酸ガスを含んだ雨水は、空気に触れると雨水の中の炭酸ガスが空気中に逃げて、溶けていた石灰分だけが天井にくっつきます。この石灰分が積もりつもって鍾乳石ができます。また、天井で固まりきれなかった石灰分は雨水と一緒に、床面に落ちて石灰分だけが床にくっつき、竹の子のように下から上に伸びて石筍になります。その他、壁にそって石灰分を含んだ雨水が流れ、壁に石灰分がくっついてできたものが石灰華と呼んでいます。
【私たちと秋吉台】
 秋吉台に私たちの祖先がいつ頃から住むようになったのかよくわからないが、人が生活していたことが判るのは、縄文時代の頃からである。それは、秋吉台のあちらこちらからその時代の土器や石器が発見されたからである。弥生時代になると、人々は農業を行うようになり、弥生人は生活の場所を台上から秋吉台周辺のポリエに移していきました。
 明治・大正時代になると、秋吉台上にたくさんあるドリーネの底は、農業に利用されるようになり、ドリーネを耕すことからドリーネ耕作と呼ばれた。また、2・3の鍾乳洞や台上は観光に利用されるようになり、今日では年間数百万人が訪れる国内でも有数の観光名所となった。一方、農業の方法が代わったことにより、ドリーネ耕作はほとんどみられなくなりました。
 そのほか、秋吉台の石灰岩は、古くから大理石として利用され、はじめは工芸品や建築材・農業用肥料として利用されていたが、第二次世界大戦の終戦とともにセメントの原料にも利用されるようになり、石灰業も高度成長とともに肥料用から化学工業用など他方面の産業に利用されるようになり多くの石灰業社が『3億年の営み』の恩恵に預かっている。
 今後、石灰業に携わるものとして、『3億年の営み』を無限の資源と考えず、有効な資源と考え、後生に残すべく地球人類の遺産として大事に保存していくべきではないかと思うしだいであります。
参考資料:秋吉台科学博物館発行(秋吉台の自然を探る カルスト台地と鍾乳洞)
  (秋吉台3億年)
(秋吉台の自然観察)
資料紹介:秋芳町・観光商工課(0837−62−0304)
(編集委員 竹馬剛人 記)