■石灰の残した文化遺産006 左官技術における石灰使用に関する歴史的考察
豊の国生活文化研究所所長・写真家
藤 田 洋 三

 左官技術に関する研究としては、森規矩郎、川上邦基、中村伸、山田幸一らの著作などがあるが、以降はこれに類する発表は地域研究の一部に散見するのみである。近年、佐藤嘉一郎と佐藤ひろゆきによる職人自らの著作が刊行され実践的な内容が網羅されている。これに「左官教室」をはじめとする雑誌類が加わり、左官技術一般に関しては比較的紹介されているといえる。しかし、左官技術の歴史的変遷に関する考察については、山田幸一博士の研究以降、新たな発表はない。こうした技術に関する知見は、多くの場合、その後に公開される文化財の修理報告書や文書資料などが頼りとなるが、これらの成果が新たな歴史的考察に結び付いていないのは、偏に直接これに関わる研究者の不在が要因といえよう。本稿は、これら左官技術の内、主に石灰を主体に捉えることにより、従来の研究を補足しようとするものである。本編は筆者と共にこれを編集した西山マルセーロ宗雄氏の了解を仰ぎ、年表と本編一部を割愛して本LIME誌に再編集したものである。

左官に関する職能と技術の変遷

 左官技術の代表的な技術である土を司る匠の「土工」という職名は、古代から律令体制の崩壊に先立って消滅し、変わって「壁塗」、「壁工」等の名称が現われ、中世を通じ、「左官」という用語に統一されるまで、最も一般的に通用してきた呼称といえる。大宝令の設置した「土工司」に関して、注釈書に拠れば瓦の製造から石灰を焼くことまでがその所行とあり、「続日本後記」に載せられた木工寮所属工人の編成には、土工、瓦工とともに石灰工が指揮下に加えられている。左官という職能には様々な仕事が含まれるが、当時は仕事ごとに細分化された職名が存在し、一つの組織を構成していた。また、それぞれの地位も一定ではなく、技術の程度等に応じて位も分化していた。そのため左官という現在の職域をそのまま遡って捉えることは困難である。江戸期に入ると、それぞれに独立した組織となるため、石灰の生産と使用方法の変遷過程についてはそれぞれの資料を参照する必要がある。以下、石灰の歴史について、その概要と共に石灰関係の資料を対照しながら考察を進める。

白壁の始まり

 元来。白壁は貝殻や石灰石を焼いた貝灰や石灰(いしばい)で構成され、_(スサ)や糊分を加えたものばかりでなく、広くこれを漆喰と呼んでいる。中国では石灰を「シーフィ」と読み、韓国は「スッフェ」と読む。そして貝灰を「チーチ」。漆喰は揉灰または灰漿(ホイチャン)と呼んでいる。このため日本の漆喰は唐音の(石灰・シックイ・シーフィ)が訛った音の当て字という説もある。
石灰は古くは、13500年前のアルタミラ洞窟壁画の下地に存在し、紀元前2600年にはエジプトナイル川沿いのピラミッドの建設にも用いられている。またメソポタミア流域に大規模な石灰焼成窯が登場し、ローマ時代の石造建築にも石灰モルタルが使用された記録が見られる。一方中国では、紀元前1500年に仰韶(ヤンシャオ)遺跡の住居跡から石灰使用の痕跡が発掘され、周の時代に唇灰(しん灰、大蛤の殻を焼いた灰)を塗った壁を登場させ、漢時代末期の山東省で蛤を焼いた叉灰(きはい)を水で溶かして床下に撒き、シラミやノミ退治に使用したことや後漢時代に石灰焼成を石炭で始めた記録が残されている。〈註>叉灰は唇(大蛤)が獲れなくなり、小型の蛤の灰を混ぜた混合灰のこと。〉
石灰を使った日本最初期の壁について、伝承ではあるが西暦前97年に建波邇安王(たてはにやすおう)が崇神天皇に反旗を翻した時、大和の国瑞籬御所の土塁を許勢小柄宿禰(こぜおがらすくね)に勅命した話が残されている。しかし以降は飛鳥寺の造営(588)まで、左官技術による壁の記録は遺されていない。また西暦210年頃、神宮皇后が小柄の子孫の許勢兄弟に、大和稚桜御所外壁の土塁造りを勅命したこと。このとき許勢兄弟が、金具師に曲玉に擬した鉄のヘラを打たせて職具にしたのが塗り師と捏ね師の始まりという伝承もある。大和の国の平河野に左官・右官の祖神を祀る許勢神社があり「壁職業祖神縁起録左官祖神尊像図」に左官の許勢真壁連(こぜまかべむらじ)が元首の鏝を持ち、右官の許勢土部直が鏝板を抱えた姿が祀られていたが保元の乱で焼失したと云われている。また、許勢兄弟は、宮中出入りの専属職人で左官という職名は天皇から賜った号であり、645年に孝徳天皇が大和岡本の大内裏を造営した時、許勢波多哀(はたお)が御所の外郭造作の勅命を受け、赤土に石灰を混ぜた土塁を完成させたのが日本の「土部(ハセベ)・白壁職」の起こりであると云われている。しかし、これ以降、大陸からの技術者が飛鳥寺建設に携るまで、建築に関する記録は残されていない。伝説に残る壁の様子も伝わっていないため、この工事以前の左官技術は極めて原始的なもので、専門的な知識を要する工事はなされていなかったものと考えられている。

「飛鳥・奈良・平安時代」

 当時、大寺院のような公共建築であっても主要な材料は素木(しらき)で、屋根は茅や藁などで葺かれていた。崇峻元年(588)に百済から仏教建築の技術者として寺工(てらのたくみ)、轤盤博士(ろばんのはかせ)と共に画工(えのたくみ)が渡来し、直ちに飛鳥寺(法興寺)の建設に関与したとされる。大陸からの技術者は、青丹(あお)や緑青(ろくしょう)や紅殻(ベンガラ)を塗った、極彩色の柱や白土の上に壁画を描いて曼荼羅や法悦の世界を現出させたのである。
古代法制が制定された飛鳥時代(604)に、土工・白土師・石灰工と呼ばれる職業が登場して瓦や石灰が焼かれ始める。律令時代の宮内省では、天皇家の食事や医療、衛生、酒造、営繕の職務に携る職業として大膳職(だいぜんしき)、木工寮(むくりょう)、大炊寮(おおいりょう)、主殿寮(とものりょう)、典薬寮(てんやくりょう)掃部寮(かもんりょう)、内膳寮(ないぜんし)、造酒寮(ぞうしゅし)、主水司(もひとりのつかさ)、采女司(うねめつかさ)が設けられ、これをさらに四階級に分けて一等官を長官または頭(かみ)、次官は助(すけ)、三等官を判官(はんがん)、または无(じょう)、四等官を主典(さかん)と呼んでいる。
この資料によると左官は、朝廷所属の木工寮の最下位に属し「塗り大工・壁大工・かべだいこう」と呼ばれたが、大宝律令(701)では、土工司(つちのたくみのつかさ)となり、正一人が「土作瓦壁」を司り佑一人、令史一人とあり、泥部(ハセツカベ)が20人と使い部10人、直丁一人に泥戸(ぬりこ)がいたと記録され、また舎人親王と太安万侶が養老4年(720)に編纂した「日本書紀巻30の19」に、欽明15年(547)に「預め営壁(いほりそこ)を治らしむ」と記したものが壁工事の最古の記録である。そして和銅5年(712)に編纂された「古事記」に「即作無八尋殿、入其殿内以土塗塞而、方産時、以火著其殿而産也」と木之花佐久夜昆売(このはなさくやひめ)の産室の塗り壁の様子が登場し、荒壁と中塗りは今日の湿式工法とほとんど変らない記録を残している。また「日本書紀」の巻19に「泥部穴穂部皇女」の記録も見られ、ハシヒト・ハセツカヒ・ハセツカサと読む言葉が用いられている。巻28に「泥部・ハセツカベ」、巻29「泥部造・ハセツカベまたはハシヒト」なども記され、この時代の土に関する仕事はみなこの人々が従事し、壁塗りの他は製瓦や石灰焼きが補足されている。
奈良時代初期の壁工事の仕上げは、主に白土(白粘土)が上塗りとして用いられたが、官制の整備で朝廷内に土工司が登場し、左官材料や工事施工が管理されるようになると土工司は独立して石灰の製造を司るようになる。こうした材料の供給とともに、奈良時代の終わりから平安時代初期に土蔵が登場する。
また平成3年に京都の長屋王邸跡から奈良時代初期の木簡易が発掘され、右大臣長屋王に従属した「土塗」という職名が出土した。加えて九州佐賀県上峰町で7世紀に作られた「版築土塁」。大分県宇佐市の虚空蔵寺跡から奈良時代の「瓦窯二基」が発掘されている。
こうして白亞塗籠形式が高級仕上げとして認識されるようになり、技術的な転機となったのがこの時代であるが、希有な仕上げであり、材料も量産されずに高価であったため、極限られた範囲の建築に用いられるに過ぎなかった。平安時代の城郭や貴族の屋敷が形を整えるに従い、左官は「属・さかん」から「目・さかん」と呼ばれるようになり、大目・中目・小目と技量によって分けられ、左官は番匠(大工棟梁)桧皮工(屋根職)鍛冶につぐ4番目に位置するようになる。

「鎌倉・室町時代」

 鎌倉時代になると屋内にものをしまうことが重要視されるようになり、機密性と堅牢性に加え耐火性が要求されるようになる。このころから左官工事を必要とする建築物の範囲は徐々に拡大し、寺院や官衛という大陸色の強い公共の建物に限らず、左官工事の発展と共に壁の工事は住宅内にも広がって燃えやすい校倉や板壁の倉庫から、火災に強い土蔵形式に変化し、京都で土倉(どそう)と呼ばれる建物が登場した。土倉という名称は、有力な商人を意味したが、これは商品などを収蔵する土倉を構えていたことに由来する。

「安土・桃山時代」

 当時、本格的な左官工事は上流階級の建物に限られ、白土や石灰や高価な糊(米粥)を使う建築は、庶民の住居には見られない。またこの頃の民家は、土肌のまま荒壁同然の仕上げで、貴人の館でも色壁は見られない。壁の彩色は本格的な左官工事が登場する江戸中期まで待つことになる。
桃山時代に鉄砲が伝来すると築城に革命的な変化が生じ、この強力な武器に対抗する必要から城は石組・塗り壁・瓦葺きとなり、外壁は防火や防弾を目的とした厚い上壁で施工されるようになる。こうした天守閣の威容を強調する白亜の漆喰仕上げが、左官職人に腕をふるう現場を提供する結果となり、これを賄うため左官工事の需要は、前時代と比較にならないくらい増大した。天正5年(1577)、大工・左官・石工の技術を結集した織田信長の安土城には七重もの天守閣が登場し、豊臣秀吉の大坂城はさらに巨大で華麗となり、慶長14年(1609)には、全国で25基もの天守閣を持つ城郭が建設されていた。
こうした大規模な工事の問題として、均等な技術を持つ職人を大量に動員できない場合や壁面の均一性の保持、また予定の作業工程を得るために壁材の粘着性が考慮され、元禄時代から米粥に変わる安価な海藻糊が登場する。これが技術革新の引き金となって日本の左官技術は最高潮を迎える。
永禄8年(1565)に書かれた「耶蘇会士通信・上巻・村上直次郎訳」の文中に、宣教師のイスマン・ルイス・ダルメイダが「比等の家は塀及び塔と共に今日まで基督教国に於て見たることなき甚だ白く光沢ある壁を塗りたり。城郭の如く白きは石灰に砂を混ぜず、甚だ白き特製の紙を混ずる故なり。(中略)比別荘地に入りて街路を歩行すれば其の清潔にして白きこと、あたかも当日落成せしものの如く、天国に入りたるの感あり。外より比城を見れば甚だ心地よく、世界の大部分にかくの如く美麗なるものありと思われず」と大和信貴山城を訪れた時の城郭や白壁の様子を記している。城郭建築は、大坂夏の陣で勝利した徳川幕府の覇権の確立で下火となるが、天正12年(1584)、大和興福寺の「多聞院日記」に石灰(漆喰)に油を混入すると硬化する方法が記されている。
「築地延引瓦葺之容易也 油併石灰入 一段堅久可在之所也」

これは天正14年(1588)、豊臣秀吉が京都東山で方広寺の大仏建立を発願した頃、豊後臼杵藩の唐人町に居住した明人の陳元明や王退が、菜種油を混入した大佛漆喰(油硴漆喰・ゆがきしっくい)を伝えた資料に登場する。渡来人たちが伝えた大佛漆喰(陳漆喰)の技法は、江戸時代の塗り籠め建築に多大な影響を与えたことが推察される。
一方、室町後期から茶道の発達に伴い数奇屋建築が登場する。茶室は建築史上重要な位置をしめることはいうまでもないが、これは外国の影響を受けていない日本のオリジナルな建築であるということが重点をなしている。この草庵茶室は、桃山時代の「豪奢」に対し「世に時めく権門に対し、時にそむく侘人」の姿勢で臨み、大層高楼に対し、茅茨小亭を産みだした。茶室は千利休が「侘びに即して権門を離れざる一法」を案出してから、権威の象徴であった白壁以外のモノが求められるようになる。この頃から聚落壁や西京壁、大津壁などの風流、静寂、素朴が好まれて上層階級に普及し、さらに武家や一般の上流階級にも広がって特殊な技術を必要とする左官技術の土壁は、日本人の精神生活に深く浸透するようになる。
近世來続いた城郭の建設と草庵茶室の出現は、左官技術の発展に大きな転機を与えた。前者に求められた質と量の拡大は、左官のみならず石灰を始めとする生産者の生産性の向上と業務拡大をもとめ、後者は表現者としての左官の新しい技術と素材や道具の改革をもたらせた。特に漆喰塗りの技術は、当時の城郭建築の記録からも、当時一気に全国水準を押し上げたことが推察できる。そして、そのことによる量産化の技術がそれまで高嶺の花であった白亜塗籠の建物を一般に広げることを可能にしたのである。

「江戸時代」

 元和元年(1615)、大坂夏の陣で徳川家康が圧倒的な勝利を得ると、武家法度が布告され、元和の一国一城令で諸大名の城郭新築や修復は厳しく管理され、幕府の許可が必要となる。家康は国許の三河から連れてきた職人を使って、江戸城を始め神社仏閣や武家、商人、町人の町割りや上水道の建設を始める。 
慶長2年(1597)、長曽我部元親の百ヶ条に壁塗。慶長10年(1605)、宇都宮大明神御建立御勘定目録に左官作料。元和7年(1630)、徳川家光の時代に壁塗・壁屋・左官などが登場し、寛永17年(1640)の幕府の文書には壁方の職名も見られる。天和2年(1682)、山城国で刊行された「雍州府史・ほうしゅうふし」に、京都では川砂を使う左官が多いので砂官が語源だという説や寛政元年(1789)に出版された「頭画増補訓蒙図彙五巻」に_者。寛政2年(1790)、富山県の小杉左官の「諸用幹写併聞書留」に左冠。天保5年(1834)の「太子講中寄合帳」に壁屋と記されるなど、左官の職名は混在している。
宝暦6年(1756)、鎖国の始まった島国で日本人が泥や藁を使って壁や水路を作っていた頃、英国人のジョン・スミートンがセメントの基礎となる「粘土を含む不純な石灰石が水で固まる性質」を発見し、翌年にレンガ職人のジョセフ・アプスディンが石灰石と粘土を溶融点まで焼いた水硬性(水で固まる性質)のポルトランド・セメントを完成させる。一方日本では、都市部の発達による急激な人口増加は木造家屋が密集する過密都市を産み出し、大火災が大きな問題となっていた。明暦3年(1654)に発生した振袖火災は、5万とも6万ともいわれる死者と焼失家屋や橋9000件という記録を残している。この大火災を契機に幕府は道路の拡張や広小路、防火堤、本所の開拓、新吉原の普請、定火消しの設置、市街地の拡大など様々な都市防災を考案し、享保3年(1718)に大岡越前に命じて消防組織を登場させる。しかし定火消しに消火能力は無く、延焼防止のために隣接家屋を取り壊すことが精一杯であった。このため江戸に屋敷を持つ諸大名は、火災に備え大工や左官を「お抱え」という士分格に取り立てて家臣団に組み込み、数年ごとに江戸に出府させ幕府や藩邸の再建に従事させた。享保6年(1720)に時の将軍徳川吉宗は度重なる大火災のため、やむなく徳川禁止考を変更して「町中普請之土蔵作塗屋瓦屋根勝手次第ノ事」という触書を発令し、庶民に土蔵造りを許可する。このことが再び左官職人に活躍の場を提供することになったのである。

「明治時代」

 19世紀、明治政府は、都市建設にセメントを必要としたため、東京に工部省深川分局という官営セメント工場や研究所を設置し、明治8(1875)に国産セメントを完成させる。やがて藩禄奉還制度法案が成立して失業中の藩士にこのセメント工場や各地の石灰山が払い下げられる。東京では深川工作分局のセメント工場の無償払い下げを受けた浅野総一郎、山口で秩禄債権と政府の助成金を受けて発足した小野田摂綿篤(セメント)。大分で臼杵藩主の稲葉侯から下賜された石灰山に「留恵舎」という石灰の製造会社が創業する。こうして石灰山は粘土を加えて焼成するセメント産業に姿を変えたのである。
時代の要請に併せ、西洋建築を担当する技術者を養成するため政府は、明治9年(1877)に工部美術学校、明治10年に工部大学後(現・東京大学)を開設した。やがて洋風装飾を付加した商業建築や一般住宅が作られるようになると、これらに対応するため左官職人は競って西洋の装飾を学び、独自の技法で工芸品を作り出す。同年に新政府は、優れた国産品の発掘と産業振興を目的に上野公園で第1回内国産業博覧会を開催した。このとき下記のように記している
「東京府ノ漆灰塗見本額ハ各種ノ木理及ビ紙本ヲ模シヌ諸家ノ墨跡ヲ写ス、色沢文理筆濃淡二真贋ヲ弁知セサラシム、且ツ価格低廉ナリ。若シ他二技術ヲ施サハ用途多キヲ致スニ至ラン」
漆喰装飾を広めたといわれる入江長八の手技を大まかに説明すると、西洋のフレスコ画にレリーフを組み合わせた新しいタブロー(絵画)形式だったといわれているが、これが審査員の目にとまり、長八は漆喰装飾の世界で中心的な役割を果たした。その後、長八の四天王と呼ばれた天神の梅、中橋善吉(今泉)、江口庄太郎、吉田亀五郎やその弟子の伊藤菊三郎、さらに長八の影響を受けた静岡の松浦伊吉(1844〜1907)や森田鶴堂(1857〜1934)がこれに続いた。
当時の役所は、本格的な西洋装飾を必要としたため、明治19年4月に東京職業組合が左官工業規格等級を定め、美術1等工(肖像・動物形体制作)から4等工の普通絵・模様・普通型模様塗り。立体及び平面幾何学、解剖学、画学や和洋の伝統様式に加え、形体処理を学習の条件とした。
西洋建築の装飾は江戸時代の都市計画に深い関わりのあった吉田家の吉田亀五郎の弟子で赤坂離宮の建造時に宮内賞営繕課離宮造営部に入居し、離宮や宮内省関係の彫刻模型や日本橋の柱飾りの原型を作った熊木三次郎や牧野万蔵が判明した。しかし地方の左官職人が西洋装飾の知識や技術を取得するには、港開場か東京か大阪などの大都市で修行か見学をして取得するか、西洋建築の現場で徒弟期間を終えた職人が、技能を磨くために各地で修行する「西行・さいぎょう」で訪れた時に彼等の技術を目で盗んで覚える程度で、地方の職人にとって西洋の装飾や彫刻など学ぶところも余裕もなかった。
しかし明治という時代は、これまで見ることも出来なかった外国の文明文化が、庶民の生活にまで押し寄せ鎖国時代に培った左官技術が、西洋の高度な建築技術を容易に吸収するばかりでなく、国際レベルに達していたことを証明する時代でもあった。島根の石州左官松浦栄吉が上海の日本領事館や朝鮮大邱郵便局を塗り、明治34年(1901)に帝国ホテルを塗り終えて大陸に渡った富山の竹内源蔵が大連の朝鮮銀行。また大分の池田松三郎は、台湾総督府を塗り終えて満州国に渡り、新京駅を完成させている。

「左官用石灰」

 わが国は、全国に良質の石灰岩脈が分布し各地で採石が行われている。しかし左官用消石灰の供給地は割合少なく、現在では栃木県葛生の野洲灰が北海道から東北・関東方面。岐阜県赤坂の美濃灰が北陸中部や近畿方面。高知の土佐灰や福岡県の筑前灰、大分の津久見灰が近畿、中国、瀬戸内、四国、九州に供給されている。左官における石灰の使用は、古くは奈良時代から使われていたことが判明しているが、実際の生産地や方法などについてはいまだにその全貌は見えていない。各種文献を紐解くと、製法に関する詳しい記載の殆どが江戸時代以降に限定されており、白亜塗籠が流行しだした当時の情勢を物語っているといえよう。「和漢三才図会」(正徳3・1713)にその一部が紹介され、奈良時代の石灰資料は、仏像の製造時に僅かな記載が散見されるのみである。
貝灰は、我国で最も古い時代から焼成された石灰で、古くは地面をくぼませた谷焼きや七輪窯。明治中期以降は、トックリ窯と呼ばれる石灰用の窯で焼かれた。貝灰は、古くから貝殻や蚌灰(ぼうばい・どぶ・カラス・蜆などの淡水貝)や和歌山県南端の菊目石という珊瑚を焼いた熊野灰。鹿児島県知覧町の菊面石。奄美諸島の珊瑚灰。沖縄ではムチ漆喰と呼ばれたサンゴの灰もあったが現在は、石灰石の他に牡蠣殻や蛤・アサリ・赤貝・ホタテ・ホッキの貝殻を焼いた貝灰が使われている。
石灰(いしばい)を使用した壁の硬化力は、貝灰よりも強いが未消化の石灰によって亀裂やフケ(割れ目)が生じる難点がある。貝灰の硬化力は、緩やかでじっくり固まり亀裂が生じ難いので、土蔵の仕上げは牡蠣殻を使うのが理想とされている。こうした石灰焼成の江戸期の歴史を並べると、凡そではあるが次の三段階に分類出来る。


第一期 長年の戦乱で荒廃した城郭や禁裏の修復。新都「江戸」の都市計画による土木や上下水道・水路整備工事の三和用石灰の需要増大で関東青梅成木の武州灰・岐阜県赤坂の美濃灰・栃木県葛生(くずう)の野州灰の焼成が始まる石灰石焼成黎明期。
第二期 人口集中による木造家屋の密集が度重なる大火災を誘引。幕府は享保年間に防火対策の土蔵造りを許可。これが石灰焼成の需要を増大させた石灰焼成発展期。
第三期 「享保・天保の改革」による農業用のタメ池や水路の整備。肥料用、除草剤、防虫剤など飢饉に対する食糧不足解消のため、石灰石や貝灰やサンゴ灰の焼成が許可された石灰焼成全盛期。


江戸時代の石灰焼成は、貝灰や石灰に限らず幕府や藩の専売品として厳しく管理され、石灰の焼成とこれに関する燃料の木炭製造は、幕府や藩の許可や多額の上納金を必要とした。石灰の密造は、城郭を築き幕府に謀反する武家法度に触れ、改易や取り潰しに加え木炭製造で使われる森林の破壊が自然災害を誘引したため、藩は石灰奉行を置いて厳しい管理下に置いた。
大分県下の石灰石焼成の始まりは、前述の石灰焼成第三期に該当し、川登村清水原の「焼き石又平」こと市作が美濃国(岐阜)で石灰焼きを覚え、安永7年(1778)に現在の野津町で焼いたのが最古の記録である。
文久2年(1863)、臼杵藩主稲葉灌道(あきみち)によって設置され、藩の財政を助けた石灰焼きは、明治7年(1874)の廃藩置県により旧藩士の授産設備として払い下げられ「留恵舎」という会社組織を誕生させた。明治25年(1892)に留恵舎は「石灰合資会社」と改名し、同27年に宇佐市長州と速見郡豊岡村に石灰問屋を開設している。

終わりに

左官技術における石灰使用に関わる資料の多くは、江戸時代に集中し中世以降については限定された情報からの解題が主となる。
石灰生産地と産業の推移
中世以前の石灰の産地が明記された資料が得られないため当時の産地分布図を描くことは困難であるが、初期においては貝灰が用いられ、その後火山灰などが用いられていたと考えられる。やがて石灰岩を用いるようになるが本格的な焼成は江戸期に入ってからといえる。当時の都の建設を支えた石灰は、近江であり、石灰庄という職名が存在したが、現在では江戸中期以降に始まった他の地域の生産が主となっている。