■石灰の残した文化遺産005 服部長七と人造石
明治用水緑道と水利用協議会事務局長
田 中   覚

1.はじめに

 私が愛知県西三河地方の矢作川右岸の洪積台地をかんがいしている農業用水−明治用水−を管理している団体でのはじめての仕事は、矢作川の中に長く伸びる導水堤の取り壊しでした。昭和30年代当時は、食糧増産が国の施策で、安定的に取水するため、農水省の手で新しい頭首工(土地改良では、堰のことを頭首工といいます)が完成(S33年)した後でした。当初の考えでは一部を壊しておけば、後は浸食されて自然に壊れると思っていました。そこで、発破をかけたが、ブスーと小さな音がして設計見積りより壊れなかったことを記憶している。この堅牢な工作物が服部長七が今から百余年前に作ったものである。
 幸い堅牢なため一部であるが、矢作川の中に現存し、服部長七の遺物をみることができる。そこでこの遺構を文化財として保存するため現在関係機関に働きかけている。
 私が三十余年お世話になった明治用水地域には、服部長七の遺構、遺跡が残っている。
 この稿ではこれらの場所を訪れ、紹介するため筆をとった。

2.人造石とは

 服部長七とはどんな人物でしょうか。彼は天保11(1840)年、三河国碧海郡北大浜村(現、愛知県碧南市)に生また。16才の時、左官の父が死に桑名(三重県)で数年修業し、郷里で左官を開業したが、田舎の左官に満足せず職を転々とし、34才で東京で饅頭屋を開業した。当時の東京では市民が池水をそのまま飲用していることを知り、チャレンジ精神旺盛な彼は濾水器(濾過池)が作ろうとした。しかし、水密構造に使うよい材料がないので、彼が修業した“たたき”の手法を試みた。しかし東京周辺にはマサ種土がないので、郷里の三河からこれを取り寄せ、店の土間で試みたら、堅牢なこと石のようで、しかも費用も安いので、彼はたたき屋になることに決めた。
 この、たたきとは、石灰に種土を混ぜ、水で固練りしたものを、板や木槌でよくたたき固めたものである。種土は花崗岩が風化し土壌化したものが最適とされている。矢作川流域など、三河地方に堆積するまさ土がそれで、後に各地に送り出されて使われたため、「三州たたき」の名が広まったほどである。
 たたき原料の混合比率は地域や職人の流儀により一定ではないので、各地の遺構を訪ねるのも興味あることである。
 彼はたたき屋になったが、注文は井戸側、石塀、水槽などの小さな工事ばかりで、彼の野望は充たされなかった。
 やがて宮内省に認められ、皇居学問所の廊下や泉水、青山赤坂離宮などの工事を次々に請け負い、これを契機として、大久保利通、木戸孝充、品川弥二郎ら政府高官の私邸工事にも出入りするようになった。
 彼は自分の得心がゆくまでは、採算を度外視しても仕事をやり抜く長七の一徹さが認められ、請負師として成長した。彼は原料の練り具合などの工夫によってたたきの耐水性を高めることに成功し、土木工事への自信を持つようになった。
 1777(M10)年の第一回内国勧業博覧会、1881(M14)年の第二回同博覧会には、たたきによる暖炉、濾水器模型などを出品し、賞を得ている。
 この第二回博覧会の会場内で、泉水池を請け負った長七がたたき工事をやっていると、農務省のお雇い外人技師が、「この人造石は何で作っているのか」と聞いた。
 それまで自分の工法を「長七たたき」と呼んでいたが、この時以来「人造石」と呼ぶようになった。

3.服部新田 ―高浜市芳川町―

 長七が最初に行った大規模土木工事は郷里の服部新田(高浜市)の築堤工事である。
 彼が自分のたたき技術を試すため、波の打ち寄せる海岸で成功すれば、国の大きな利益につながると考え、自分の事業で試みることにした。
 1881(M14)年、天保のごろより新田開発を試みながら成功せずに放置されていた海岸荒地20haを、半田のなかの中埜又左衛門らの資金援助で買い入れ、人造石堤防を築くことにした。40日間で潮止めを行い、延べ33,000人を使って、堤防の延長1,074m、高さ5m、その工法は人造石で作った直径1mの井筒を並べ、これを基幹として堤防を築き、外法(海に面する外側斜面)を人造石で張ったものである。彼はこの事業に関連し、明治用水の付け替えや水門橋をつくり、新田に用水を引いた。さらに樋門から水田への落差を利用して水車を回し精米業を行い、のちに水車発電まで行った。(次項で詳細は述べる)途中で資金不足になったが、品川弥二郎の「国家の利益になる仕事をしている人物だから」という口添えによって銀行から借金をすることができ、1882(M15)年に完成している。
 現在の服部新田は宅地化、工場用地化が進み、海岸堤防はコククリートに改修され、昔の面影もない。服部新田は人造石で築いた最初の海岸堤防であり、彼はこの経験をもとに技術の改良を重ねながら数々の大工事に挑んでいったのである。

4.高浜発電所 ―高浜市春日町―

 この服部新田のすぐ東に明治用水中井筋がある。明治用水は1779(M12)年工事が着手され、1880(M13)年には通水をはじめた。明治用水の水源は、ここから約25Km東北の矢作川から取水し、洪積台地の開発された水田をかんがいしながら、服部新田北側でで海(衣浦湾)に注いでいた。明治用水の開削工事は、当時の国の施策である殖産興業のため、県が主導的に工事を行い、1885(M18)年までに280Kmの水路を開削し、ほぼ計画の用水が完成した。そこで工事費用を精算し、用水組合が管理するまでは県で管理を行っていた。驚くことに、1882(M15)年に長七は、当時の明治用水施設所有者である愛知県令國貞廉平に、この水路の末端を南へて付け替えること、、そして、この場所での水車営業と、その水力利用にかることなど「水力専用権」を願い出たことである。この場所は台地と干拓地との境で、高いがけ崖となっていた。彼はここまで水路を付け替えた。ここに台地と干拓地を結ぶ道路があった。そこで彼は水門を設け、上は道路とし、橋下にはいくつもの樋門をつくり、水量を調整しながら水車を回し、近代的な搗機でムギや籾を搗いた。1897(M30)年には明治用水の落差を利用して水力発電を行い、電灯をつけることに成功した。これはこの地方における電灯のはじめである。当時は電気に対する理解は幼稚で、危険視され、高浜では一軒の申し込みもなく、遠く長七の郷里新川(碧南市)まで電柱を立てて送電し、松江や鶴ケ崎で使われた。のちに岡崎電気株式会社に吸収合併された。
 人造石でできた水門は、眼鏡橋と呼ばれ高浜市民に愛されていたが、昭和30年代に姿を消し、水路の脇に残っていた人造石ブロックも昨年の道路改修で取り払われた。



5. 服部天満宮 ―高浜市春日町―

 高浜発電所があった崖上に大山公園があり、この東端に服部天満宮がある。
 由来板によれば「長七は晩年岩津天満宮(岡崎市)の宮司になり、そこで逝去している。その縁で服部新田の守り神として天神さんをお祀りしたと伝えられている。
 その後服部新田は戦後の農地改革と、さらに、高度成長期には、新田内を臨海鉄道や幹線道路が縦断し、工場や住宅が建設され、その様子は大きく変容した。この地域の鎮守様として祀られていた服部天満宮も気の毒な状態になっていた。
 その折り、老人クラブ北部憩いの家の担当会長さんから、この天神さまをお守りすることにより、老人クラブ会員のつながりを強め、活動の活性化を図りたいと提案があった。
 そこで、1982(S57)年12月春日神社境内に天満宮神殿を移し今日に至っている。」
 私が訪れた夏の昼下がりに、老人クラブの方が花と水を変えにみえ、ウォーキングの人が立ち止まり手を合わせていた。幟もたくさん奉納され、由来板に書かれているように立派に管理されていた。多くの遺構が姿を消す中で、このように地域の方に受け継がれ守られていることは大切なことである。


6 明治用水歴史資料室 ―安城市大東町―

 明治用水歴史資料室は、明治用水通水百年を記念して、1879(S54)年に明治用水会館内に設けられた。同室には明治用水に関する古文書120点、絵図、測量器具、パネル等80点が展示保存されている。その中に「自明治三十年七月 明治用水指令留 明治用水第二分科」と書かれた書類綴りが保存されている。当時の組合は総務と工務に業務が分けられ、第二分科は工務担当であった。明治用水は開削されほぼ20年を経過し、かんがい面積の増加させるために取水の確保と、安定的な通水管理が課題であった。そこで最初の取り入れ施設を補強し、流心へ月形堰堤を作ったため、度々水害を起こし、上流の村々と紛争を起こしていた。また、この時期は国土開発に向けて、河川取締規則(現河川法)、耕地整理法など農業開発に関する法律も整備された時期であった。組合では県からこの規則にもとづき既存施設の存知について許可を得たのであるが、命令書はこの月形堰堤の除去する条件が付けられた。そこで組合では新堰堤をつくることに決めた。
 この書類綴りには、工事の許認可に関する書類や災害のための応急工事の稟議書などである。この中から人造石に関する工事書類は次のものである。
・人造石樋管工事請負契約證書 明治32年11月
 内容 明治用水路結成石樋管工事設計書
・矢作川通明治用水水源堰堤工事設計書 明治34年
 内容 人造石堰堤筏通
・堰堤導水堤破損修繕工事請負契約書 明治35年8月
 内容 人造石工事設計書
堰堤下床張人造石工事
筏通放水門砂吐下水叩人造石工事
堰堤導水破損修繕工事(人造石で復旧)
・導水堤工事請負契約書 明治35年10月
 内容 導水堤破損修繕工事(人造石で復旧)
・水源補充工事請負契約書 明治36年2月
 内容 筏通伸長工事(人造石施工)
・人造石工事出来形書 明治36年6月
 内容 明治35年8月契約工事の精算書
・補充工事打切精算書
 内容 明治36年2月契約工事の精算書
・堰堤工事請負契約書 明治36年11月
 内容 堰堤陥落復旧修繕工事
堰堤補充工事
放水門新設工事
・工事予算設計書 明治42年度
 内容 本流通り元樋より三番樋まで堤防修繕工事
用水樋とし土管付設に人造石を使用
 各設計明細書には、材料として種土、石灰の数量が記され、中には人造石人夫と記されているものもある。ここでは紙面の都合で配合の詳細は省略する。
 なお、明治32年11月の工事契約は新川町服部長七と契約、明治36年11月 の工事契約は新川町山本普平、ほかの契約は名古屋市の渡辺宗八となっている。



7. 葭池(よしいけ)暗渠 ―豊田市鴛鴨(おしかも)町―

 矢作川から取水し、水路を4Kmほど下がったところに深い谷がある。 ここは明治用水本流と東名高速道路が交差し、今では高速道路の高架橋が一気渡っています。
 矢作川右岸の洪積台地へ水を流すにはこの谷を越えなければならない。明治用水開削工事のなかでは、一番の難所で、唯一の盛り土カ所である。
 明治用水開削者である伊予田与八郎が著した「明治用水発起成功略記」からの当時の様子を引用する。″鴛鴨村地内永覚新郷の境に至り字大岨と唱える地、三百五十間(630m)の間谷田にして該田底深さ二・三間(4〜6m)のでいてい泥渟にして植え付けこううん耕耘とも古より泥底に丸木を架して為す所なり。右の長線に敷三十間(54m)高二丈余(6m)上幅十間(18m)に築き上げ、しか而して是に底幅四間(7.2m)の水路を造り。……゛
 この様な所であるので明治用水が通水後幾度か決壊し、通水に支障をきたすばかりでなく、この堤によって遮断された水田にも被害が生じた。
 そこで組合では、1899(M32)年11月、堅牢なあんきょ暗渠に改築することにし、評判の高かった服部長七に工事を発注した。この契約は「人造石樋管工事請負契約證書」で服部長七と交わした。
 現存するこの暗渠は長さ39.5m、高さ2.5m、幅3.3mで、全面張石構造の人造石で、半円の見事なアーチ状を呈し、百年余の歳月を経過してもびくともしていない。
下流側暗渠入口には銘板があり、「葭池樋門 明治33年3月 服部長七」と刻まれている。
 家下川の流域も都市化され、この暗渠下流は愛知県の手で改修、上流は豊田市の手で改修され、この暗渠が流水を阻害している。この貴重な明治の土木遺産を姿を消すのも時間の問題で残念である。


8.明治用水旧堰堤(えんてい) ―豊田市水源町―

 明治用水頭首工から上流を見ると、左岸には両端に門扉の跡を残した幅3m、長さ30mほどの水路のような石張りの構造物、ここから6つの石造りの構造物が、川面に浮かぶかのように川の中央に向かって一列に並んでいるのが見える。さらに右岸川面には長さ80m、幅10mほどの堤防が浮かんでいる。これか今から百年ほど前に作った堰堤の一部で、船通閘門と排砂門柱の跡、それに導水堤の一部である。先述のように1958(S33)年に新頭首工が完成したので、この旧堰堤の取り壊しを試みたが、余りにも堅牢で壊しきれず、幸いなことにこの遺構の一部が現存している訳である。目下この貴重な遺物を後世に伝えるため、文化財保護の働きかけをしている。
 さて、この堰堤をつくる経緯は先述歴史資料室の項で述べたので割愛し、長七が作った工作物について紹介する。川幅八十八間(158.4m)のところ堰堤は左岸から六十四間(115.2m)で、この中央部に五間(9m)の筏通しを設け、その左右にそれぞれ幅一間(1.8m)の放水門四門、排砂門五門を設けた。工法は堰堤全体を人造石で形成し、その外側を人造石で接合した石積みで保護するというもっとも強固なものである。
 しかし、度々水害に見舞われ、その都度堰堤の補強をし、さらに放水門の増設、船通閘門の新設で八年の歳月を費やし1990(M42)年に完成した。
 この堰堤は両岸の岩盤から上流に向かってアーチ式構造を採用し、水量調節用の自在回転式扉や、船運に配慮した船通し閘門、魚の遡上のための魚道など新しい機能を備えた先駆的なものであった。
 1910(M43)年、この堰堤模型と水利成績書を関西府県連合共進会に出品し。農商務大臣から一等賞金杯を受賞した。



9.岩津天満宮 ―岡崎市岩津町―

 長七は1894(M27)年国内の数々の工事実績が認められ、台湾総督府の依頼で台湾に渡り、キールン基隆、淡水両港の改築工事と淡水水道工事の設計を行っている。1897(M30)年には多年の功績により緑綬褒章を受けている。請負業者としての服部組も全国に数十か所に支店を持つ大組織に発展した。ところが1904(M37)年、突然長七は六十四才で一切の事業から手を引いてしまう。彼のぎきょう義侠に富む国土的な性格が、しばしば採算の合わない大工事を引き受けたためもあろう。さらに想像するならば、長七は時代の推移を予見していたのではないだろうか。明治三十年代に入って、わが国でもセメント工業がようやく定着し、それまで価格や品質の点で難があったセメントも、大量に出回り始めた。また、鉄筋コンクリートなど新しい工法も登場してきた。長七が一生をかけて練り上げた人造石の技術は、新たな建設技術と材料にその座を明け渡す日が近づいていた。
 長七が氏子総代として再興に努力していた岡崎郊外の岩津天満宮境内に隠棲し、神事への奉仕に明け暮れ、大正八年(1919)七月十八日、七十九才で没した。
 岩津天満宮東山腹の梅林の裾に服部長七翁碑がある。碑文には「服部長七翁壽藏碑 従三位勲二等工学博士渡邊渡篆額とあり創製人造石、借百般利用、築海港作堤防、立功各地……と翁の功績、経歴を延べ最後に 提記偉功営壽藏 天下後世萬丈光 大正六年八月 三河 鷹州逸人織田完之撰并書」とある。
 さらにその横に人造石のぎひ擬碑がある。これは1998(H10)年10月(財)科学技術交流財団が、「環境にやさしく、自然と共生できる人造石工法を後世に遺さんとし、晩年を岩津天満宮の復興に捧げ、ここ天神山に没した長七翁ゆかりの地に」建立された。なお岡田明廣画「人造石・擬碑断面図」も掲示されている。


10.服部長七の墓と功績碑 ―碧南市住吉町精界寺境内―

 長七の故郷新川の精界寺境内の墓地の中に長七の墓と功績碑がある。表面は「人造石発明者服部長七之碑 陸軍大将男爵土屋光春謹書」と刻まれている。裏面は「服部長七翁泥工幸助君第三子也天保十一年庚子九月生於三河国新川町字西山……ではじまり経歴と功績を讃え今慈二月門人故旧胥謀建碑請余文固辞不得及叙其行状之概要云爾 大正九年庚申二月 板倉松太郎撰并書 宇野真太郎刻」とある。 ※ 胥(しょ)…小役人
 最後に服部長七の主な工事実績を列記する。

愛知県岡崎町夫婦橋 明治11年
東京市富士見町水道 明治12年
第二回内国勧業博覧会陳列場泉水など  明治14年
愛知県碧海郡高浜村服部新田干拓堤防 明治15年
広島県宇品新開・築港 明治17年−明治22年
愛媛県大可新田護岸・三津浜波止場 明治19年
愛媛県今治海岸護岸 明治20年
広島県尾道海岸護岸 明治20年
鳥取県賀露港築港 明治23年
御料局佐渡支庁相川港護岸 明治23年−明治24年
御料局名古屋支庁白鳥貯水場樋門 明治25年
御料局生野鉱山貯水池堰堤 明治26年
愛知県豊橋在神野新田干拓築堤 明治26年−明治28年
播但鉄道第二・七工区 明治27年
横須賀若松海岸埋立 明治29年
四日市築港 明治30年
名古屋築港 明治31年−明治35年
愛知県明治用水堰堤 明治33年−明治36年

(2004.8 脱稿)

 参考文献

日本の産業遺産ー産業考古学研究ー山崎・前田編 玉川大学出版部  1986年3月
技術文化の博物誌 飯塚一雄著 柏書房 1982年12月
碧南市史第二巻 碧南市編刊 1970年 4月
碧南事典 碧南市編刊 1993年 5月
高浜市誌第二巻 高浜市編刊 1976年 3月
岩津町誌 岩津町編刊 1936年 4月
明治用水百年史 明治用水土地改良区編刊 1979年 4月

 筆者略歴

1936年  愛知県岡崎市に生まれる
1959年 岐阜大学農学部農業工学科卒業
1959年 大津市役所勤務
1960年 明治用水土地改良区勤務
1997年 同上事務局長を最後に退職
2000年 明治用水緑道と水利用協議会事務局長 
現在に至る