■石灰の残した文化遺産 宮澤賢治と炭酸石灰(最終回)

‥‥この土を この人たちが この石灰で‥‥
伊 藤  良 治

八 賢治の心境を覗かせる「王冠印手帳」

 賢治の遺していった手帳十数冊の中に「王冠印手帳」と名づけられた一冊があります。技師就任当初の手帳で、そこにはセールスに係わる数字がいろいろ書き込まれてあります。松川駅レール渡し価格に加算される十トン貨物の鉄道運賃、そこから算出される一叺十貫当たりの届け先主要駅毎の単価、また粒径のちがいや容器(新叺か中古叺か、セメント袋か)のちがいも条件に含めた計数等々です。またセールスに回る予定店名、出張旅費実費メモ、炭酸石灰の成分表等のメモも見られます。
 そしてありがたいことに、それだけではなく、賢治がセールスに奔走する折々の心情をあらわすメモ(詩稿のかたちで)までそこに記されていて、技師賢治を理解する上できわめて貴重な資料価値を担うものです。そこでそのいくつかを紹介し、技師賢治セールス奔走中の心の軌跡を辿っていくことに致ししましょう。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇
 先ず技師就任後十日と経たない二月末の記述と推定される詩稿です。紙数の関係から、ここではセールスにまわる賢治の心情部分だけを抜き書きすることにいたします。
・下書き稿(一)<王冠印手帳から>
「……/二月の末の午後にありしか/あゝ今日は/十貫二十五銭にては/引き合はずなど/ぐたぐれの外套を着て考ふることは/心よりも物よりも/わがおちぶれしかぎりならずや/……」
・下書き稿(二)<詩稿用紙から>
「……/二月の末のくれちかし/営利卑賤の徒にまじり/十貫二十五銭にて/いかんぞ工場立たんなど/よごれしカフスぐたぐたの/外套を着て物思ふ/わが姿こそあはれなれ/……」
・最終形態<宮澤賢治全集から>
「……/二月の末のくれちかみ/十貫二十五銭にて/いかんぞ工場立たんなど/そのかみのシャツそのかみの/外套を着て物思ふは/こころ形をおしなべて/今日落剥のはてなれや/……」


 セールスの帰途、夕方近くの駅の待合室で疲れはてた身体を休め、改札時刻を待ちながら手帳に書き込む賢治がそこにいます。そして技師に就任して十日と経たない彼が「十貫二十五銭にて/いかんぞ工場立たん」と、採算次元で考え込んでいる自身をスケッチしているのです。これでは利潤追求にのみ奔走する「営利卑賤の徒」一般の仲間入りをしているにすぎないと卑下しています。酸性土壌改良によってイーハトーブの耕地に「油々漸々たる禾穀を成ぜん」と、炭酸石灰による土づくりに懸ける実践課題を抱いて活動を開始したはずの賢治です。だが現実の自分のスガタは何ということか!「そのかみのシャツそのかみの/外套を着て物思」っている自分、それはまさに「こころ形をおしなべて/今日落剥のはて」そのものだと自分自身をスケッチするのです。
 賢治にすればそれはかつて経験したことのない別次元の世界、商行為を成り立たせるためには、どうしても採算をベースに折衝していかねばならない現実の世界に突き当たらざるを得ませんでした。しかし商売に不向きで不慣れな賢治にとって、それが如何に苦痛を伴なうものだったことか。おちぶれ感、落剥感がより強く賢治に迫ってくるのでした。その上、セールス活動による炭酸石灰の普及が、果して念願どおりの成果をみちびけるものだろうか? 賢治はそれさえも不安になっていきます。自発的に宣伝販売を引き受け、「奮闘する」と東蔵に宣言したはずの賢治が直面した現実、それほど甘いものではなかったのです。技師就任早々の賢治がいたく感じとったメモが、この詩稿「せなうち痛み息熱く」でした。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 続いてメモされていた詩稿がこの「あらたなるよきみち」です。この詩稿はかなりの手直しを経て「文語詩五十篇」中の「打身の床をいできたり」に位置づけられてましたが、そこでは原形自体が見えなくなっています。そのため、当時の技師賢治を直截にあらわす「王冠印手帖」と下書き稿(二)だけをここに採りあげてみます。

・「王冠印手帳」から

「あらたなる/よきみちを得しといふことは/たゞあらたなる/なやみのみちを得しといふのみ/このことむしろ正しくて/あかるからんと思ひしに/はやくもここにあらたなる/なやみぞつもりそめにけり/あゝいつの日かか弱なる/わが身恥なく生くるを得んや/野の雪はいまかゞやきて/遠の山藍のいろせり」
・下書き稿(二)
「かすかに汽車のゆれそめて/なにか惑へるこゝろあり/このことまこと正しくて/ 身も軽けんと思ひしに/はやくもこゝにあらたなる/なやみぞつもりそめにけり/げにあらたなるよきみちを/得しとし思ふてふことは/たゞあらたなるなやみをば/得してふことにほかならず/あゝいつの日か病みはてし/わが身恥なく生くるを得んや」

 「本統の百姓」になって、仲間と手をたずさえながら明るい農村共同体を創造していこうとの理想に燃え、「中ぶらりんの教師など生温いことをしていられません」と農学校教師を辞職し、家を出て自耕生活に挑んだ賢治。それ以降の2年半を、世に「羅須地人協会時代」とよび、有名な「農民芸術概論綱要」を仕上げるのです。まさに「われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか」との意気込みをもち、近くの農民に呼びかけてもたれる集会活動、花巻近郊の農民一人ひとりとの肥料相談活動などにエネルギーを注いでいきます。だがその重なる疲労が病いを招き、ついに自宅に戻っての療養生活を送らざるを得なくなってしまうのです。
 そしてほぼ二年間の療養生活を経て、病いようやく落ち着いたかにみえた賢治は「こんどはけれども半人前しかない百姓でもありませんから思ひ切って新しい方面へ活路を拓きたい」(書簡二六〇)と回復後の仕事の模索、そして自ら選びとった「あらたなるよきみち」がこの東北砕石工場技師の仕事でした。そして「このことむしろ正しくて明るからん」と思い、「身も軽けん」と予期もしていた賢治でしたが、現実は「あらたなるなやみのみち」だと思い知っていくのでした。だが賢治はいったい何を「あらたなるなやみ」としたのでしょうか。セールス活動それ自体を「あらたなるなやみ」としたのではなく、病弱なからだ
が仕事についていけないわが身を「あらたなるなやみ」となげいていることは「あゝいつの日か病みはてし/わが身恥なく生くるを得んや」とあることから読みとれましょう。

 ちなみに「わが身恥なく生くるを得んや」に見られる文言「恥」について。それは一般常識の「ひとに対して面目・名誉を失う」という意味ではなく、健常なからだをもつ人々に伍して「恥なく」=「引けをとらないで」活動できる日がくるのはいつのことなのかとなげいていると解しています。決して面目や名誉にこだわる賢治ではなかったからです。
 「かすかに汽車のゆれそめて/なにか惑へるこゝろあり」。発車する車体の揺れ初めに象徴させ、彼自身の心のゆれを「なにか」とぼかしながらも、「野の雪はいまかがゞやきて /遠の山藍のいろせり」と窓外の風景に感慨を托し、なやみを超え行こうとしている賢治のスガタが観えてきます。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 また3月29日記述とされるメモも同じ手帳に見られます。後日推敲の手を加えながらも「文語詩未定稿」のままですが、ここでは一気にそちらを引用させていただきます。

「ひとひははかなくことばをくだし/ゆうべはいづちの組合にても/一車を送らんすべなどおもふ/さこそはこゝろのうらぶれぬると/たそがれさびしく車窓によれば/外の面は磐井の沖積層を/草火のけむりぞ青みてながる
 屈撓余りに大なるときは/挫折の域にも至りぬべきを/いままた怪しくせなうち熱り/胸さへ痛むはかつての病/ふたゝび来しやとひそかに経れば/芽ばえぬ柳と残りの雪の/なかばはいとしくなかばはかなし
 あるひは二列の波ともおぼへ/さらには二列の雲とも見ゆる/山なみへだてしかしこの峡に/なほかもモートルとゞろにひゞき/はがねのもろ歯の石噛むま下/そこにてひとびとあしたのごとく/けじろき石粉をうち浴ぶらんを
 あしたはいづこの店にも行きて/一車をすゝめんすべをしおもふ/かはたれはかなく車窓によれば/野の面かしこははや霧なく/雪のみ平らに山地に垂るゝ」
◇  ◇  ◇  ◇  ◇

 この詩は内容からいって大きく二つのパートに分けられます。前半はセールスに苦しむ賢治自身のスガタ、後半は工場で働く工員たちへの思いを情景描写に合わせての描出です。一関周辺での炭酸石灰セールス後、疲れた身体を下りの東北本線列車に委ね、黄昏行く束稲山などの山なみを窓越しに眺めながら、その向こう側にある砕石工場に思いをはせます。そこでは工員達が今なお石灰石粉にまみれながら働いている。つい三日前の3月26日にも顔を合わせた工員たちのあの顔、この顔。深い親愛のまなざしで自分を迎え入れてくれたあの工員たちの生活を守るには、セールスを成立たせなければならないのだと、自らを奮い立たせる賢治のスガタが見えてきます。
 セールス先での「卑しくも身をへりくだし」、「むなしくことばくだし」たはかない一日が過ぎていく。そこからわき出るあまりに強烈な「屈撓」感、「挫折」感。それだけではなく「いままた怪しくせなうち熱り/胸さへ痛むはかつての病/ふたゝび来しやとひそかに経れば」との病気再発への危惧感も迫まってくるのです。
 彼が訪れる先々での宣伝活動、価格交渉、受注・集金事務等々、セールス取り引きの様相が、彼にとってはまるっきりの修羅場だったことでしょう。技師就任前の賢治が「あかるからん」「身も軽けん」と思い描いていた石灰肥料セールスマンのスガタは、一軒一軒の肥料店を回る場にあっては通用するものではなかったと云えましょう。まさに「営利卑賤の徒にまじる」つき合い、いわゆる「海千山千」といえる豊かな経験をもつ商人たちとの向き合いで、「ひとひはむなしくことばをくだ」す結果におわるのが現実だったことでしょう。挫折感から立ち上がれない思いを、賢治は何度も味わったのではないでしょうか。 だがその苦悩を乗りこえ再び立ち上がる意力を賢治は持っていました。それは「山なみへだてしかしこの峡に/なほかもモートルとゞろにひゞき/はがねのもろ歯の石噛むま下/そこにてひとびとあしたのごとく/けじろき石粉をうち浴ぶらんを」との工員たちへのひと筋な思いでした。「工場が困るから、工場が困るから」とは、賢治の健康を心配する家族に対する彼の応えだったとのことです。だから賢治は「あしたはいづこの店にも行きて/一車をすゝめんすべをしおもふ」と、また立ち上がるのです。走っては倒れ、起き上がってはまた走ろうとする、セールスマン賢治の心情の表出がこの詩稿だと云えましょう。

九 賢治祈りの詩「雨ニモマケズ」をまとめに

 おしまい、賢治の詩「雨ニモマケズ」に触れさせていただきます。
 実はこの詩が賢治作だと広く知られてはいるのですが、それが賢治最晩年の仕事、東北砕石工場技師時代の作であること、出張先東京で病の再発から重態におちいりやむなく帰宅した賢治が、熱悩にあえぎながら記した病床の作であること、しかもこの詩が求道者宮澤賢治の究極レベルにおける誓願(一切の衆生の苦しみを救おうと願い、必ずこれを成しとげようと誓うこと<仏語>)であることについてなど殆んど知られないままです。ということもあって、我が東山町がその情報発信に努め、この詩に込められた賢治の「病苦必死のねがい」の真意を、広く世にアピールしていかねばならないと認識しています。
 なおその上、詩人にして信仰の人、そして科学技術者であり農民の友であった賢治が、この「雨ニモマケズ」の詩に込めた精神をそのまま現実に生きたスガタ、それが東北砕石工場技師賢治の日常だったのだと思われてならないのです。そうでなければ、身を投げ出して工場のために奔走した技師賢治の生きざまを到底理解することが出来ない。それほどの菩薩行を技師賢治は生きたのだと考えています。どうか病床に苦しむ賢治と心を合せ、技師賢治の生きスガタに重ね合わせ、この「雨ニモマケズ」を二読、三読して下さいますようお願いいたします。


  なおこの詩のおしまいのことば「デクノボー」こそ、詩全体をまとめるキーワードなのですが、ここで駄弁を弄させていただきます。普通「デクノボー」とは、「役立たず」とか「気が利かない」人を罵倒することばとして使われます。だのに賢治は、それを知りながらも敢えて「デクノボートヨバレ(ル)モノニナリタイ」と言うのですが、いったいそれはどうしてなのでしょうか。その正体は賢治座右の書「法華経」、そこに出てくる「常不軽菩薩品」にありますが、それ以上のことは省かせていただきます。ひと言で尽くすなら、賢治「デクノボー」とは「ホメラレモセズ クニモサレズ」、みんなの目から見ればただの人、目立つことなく生きている人のことを指します。とかく人間は名誉や利益を求めたがり、だからこそ嫉み、瞋り、憎み、闘いをくり返していきます。「慾ハナク/決シテ瞋ラズ/イツモシヅカニワラッテヰル」なんてなかなか出来るものではありません。「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニイレズニ」、人の幸せに自分のイノチを懸ける「利他行」を生きるなんて、到底出来そうもない話しだと反論されそうです。だが、そういう人間が本来もっている罪深さ(悪業)、それをしっかりみつめていた賢治だからこそ、「デクノボー」になりたいと誓願したのだと云えましょう。

十 賢治亡き後の東北砕石工場

賢治は昭和8年9月21日に他界しました。出張先東京でたおれてちょうど2年後のことです。技師賢治がセールスに奔走したときは、東蔵が「甚だ愉快!」と叫ぶほど売れ行きが急増していたのに、その後は再び落ち込み、資金難に苦しんだあげく、終に昭和12年に「東北砕石株式会社」と組織替え、工場主東蔵は取締役専務の座にすわります。だがそれも翌13年には退社することになります。そして2年後の昭和15年、「東北タンカル興業株式会社」と社名を改め、経営陣も交代します。そして昭和31年以降現在までの50年近く、「東亜産業株式会社・東北支店」(本社は広島市<社長岡本與吉氏>)の経営が続いています。
 一方「旧東北砕石工場」それ自体は平成6年、工場建物の保存を願い、東亜産業株式会社から東山町に寄贈、平成8年には産業分野の近代化遺産として「登録有形文化財」の認証を受けるに至りました。「国民のたから」と明記された銅版が大きな石灰石にはめ込まれ、旧工場入口に据えられていますが、東蔵と叔父鈴木貞三郎の共同経営で創めた「東北砕石工場」が一種の導火線の役割を荷って石灰関連事業所を次々に呼び寄せ、いろいろな変遷を辿りながらも、「石灰産業の町 東山」と自称するまでに至った足どりを振りかえるとき、この「国民のたから」とされる「旧東北砕石工場」とその創業者鈴木東蔵と鈴木貞三郎の果たした事績の重さは非常なものがあると痛感させられています。
 加うるに、近年ますます名声を高めてきている宮澤賢治の最晩年の仕事場がここだったことから、「賢治ゆかりの地 東山」と名乗りをあげた東山町民の手でもって、「石と賢治のミュージアム」にますますの磨きをかけていかねばならないと感じているところです。
 終わりに、東山町一帯がそもそもデボン紀・石炭紀・ペルム紀という古生層で成り立っているため、猊鼻渓(渓谷)、幽玄洞(鍾乳洞)、加えて化石採集にも多くの方々が来町いただいていますので、どうぞ何かの折にお立ち寄りくださいますようお誘い申上げ、お別れいたします。ありがとうございました