■石灰の残した文化遺産003 宮澤賢治と炭酸石灰(第3回)

‥‥この土を この人たちが この石灰で‥‥
伊 藤  良 治

六 東北砕石工場技師賢治誕生

 契約当日を語る東蔵の回想記をのぞいてみます。
「宣伝文の寄稿を得たその礼をかねて、昭和6年旧1月元旦(新暦では2月18日)、年賀状を兼ねた『当工場技師ヲ嘱託ス』との辞令を送った。ところが間もなく宮澤家より『スグコイ』の電報が配達になったのです。これは失礼な辞令を出したのかとも考えました。兎も角宮澤家の敷居を高くまたぎました。しかるに用件は予想に反し、夢ではないかと喜びに堪えざる援助策でありました。賢治さんのお父さんより、賢治は技師として工場に差し遣わし、ほかに経営費も入用だから資金として五百円を貸してやる、荷物は売れ行き次第荷為替付きで発送してその入要金も出してやる。工場にいて五円の都合も出来ない私に、五百円(当時人夫賃1円、酒1升1円)とは大きかった。」
 東蔵が呼び出されて宮澤賢治宅にあがった日が昭和6年2月21日。その日のうちに下
記のような契約が取り交され、東北砕石工場技師賢治が正式に誕生しました。

 この契約証から当日の事情がいろいろ湧き出てきます。だが私がここで特にとり上げたいこと、それは契約証末尾に賢治自身の署名捺印があっても、実は契約内容にかかわる具体的な協議進捗を傍観していただけだったと思われることです。どうしてそう受けとれるのかというと、ほぼ花巻農学校教師を辞めて以来この5年間、賢治自身の手による現金収入はなく、契約信証金の500円にしても、1,000円までの資金増額にしても、賢治自身のふところは空っぽ状態にあり、また賢治のセールスによる受注分の工場卸価格と工場直接販売による卸価格に差をつけることについても賢治自身の申し出によるものではなかった。商人としての豊かな経験をもち、そのうえ長男賢治が独立して生計の立つようと配慮するご尊父政次郎さんの主導なしに、このような契約証には至らなかったと思われるからです。肥料学の専門家ではあっても、事業についてはズブの素人である賢治を、その道に踏み込ませる舵取りは、政次郎さん自身が手がけなければと判断したからのことでありましょう。また父政次郎さんも東北砕石工場の経営が困難をきわめている事実を充分承知していました。ですから「賢治を技師として差しつかわしましょう」「必要なお金は貸しましょう」「賢治の給料は現物支払いで結構です」「荷為替ですぐ現金化できるようにいたしましょう」等など、工場経営への細かい配慮までなされています。
 賢治にとっても、賢治の家族にとっても、この契約締結は一つの重要なセレモニー。長男賢治が経済的に自立するその出発式のようなものではなかったでしょうか。ただし病弱の身である賢治を憂慮して、家族と生活を共にするという条件付きでした。そういうことから、仙台で生活することは延期されることになる。「東北砕石工場仙台出張所」ではなく「東北砕石工場花巻出張所」を開設することにしたのです。それでもなお賢治の胸中には「東北砕石工場仙台出張所」構想は消えません。王冠印手帳56ページには「花巻出張所ノ決定」と記しながらも、続く57〜58ページには「コノ三ヶ月間ハ専ラ各地ヲ出張シテ仙台ニ出張所ヲ置カザルコト」と記されています。
 賢治の健康を案ずる家族全員の意見にしたがい一応自宅で仕事することになり、家族の誰もがホッと胸をなでおろしたにしても、賢治の思いは仙台を足場にした「あらたなるよきみち」を切り拓くことにこだわり続けています。とにかく家を離れねば自立したことにならない、家族にいつまでも世話を受けるわけにはいかない。賢治はそう考えていました。

 賢治が「王冠印手帖」の使いはじめころ書き込んだ計数は、契約どおり卸単価24銭5厘として計算していったようですが、それが粒径の大小による価格の差、代金の支払方法や注文トン数等のちがいまで入り組んだ計算になると、私には解読不能に陥らざるを得なくなります。その上、相手あっての臨機応変の修羅場をくぐらねばなりません。距離のちがいで算定される鉄道運賃、新叺か中古の叺か、袋詰めか容器なしか、同じ十貫の炭酸石灰でも一々価格が異なって当然ではあろうが、賢治当人にすればかなりの複雑さを伴なうセールス活動の展開になっていった跡が手帳から窺われます。

七 技師賢治の活動 

 正式な技師就任は昭和6年2月21日でしたが、実はそれ以前から既に技師賢治の活動は始まっていました。しかもその猛烈な活動ぶりは全く驚くばかりです。ある人はそれを短距離走選手のスタートダッシュにたとえています。まさにその通りです。賢治をよくよく理解していた父政次郎さんでさえも、まさかこれほどまでにすさまじい活動を賢治が展開していくとは予想さえしなかったことでしょう。朝早く家を出て、夜遅く疲れきって帰宅する賢治を見守る家族の誰しもが、さぞハラハラのし通しだったことでありましょう。
 それでも当事者賢治は家族の心配をよそに、どこまでも自分のやり方を貫き通していくのでした。農事進行との齟齬をきたさないよう、その節その節の適切なセールス活動の展開は必須な課題です。時季をはずさずに今やらねばならないこと、次にやるべきこと、後に延ばしてもいいこと等々、賢治の持ち歩く手帳のメモ、東蔵宛の書簡には、そのことだらけの書き込みがぎっしり詰まっています。
 「油々漸々たる禾穀を成ぜん」(修学旅行復命書)との思いを、炭酸石灰の施与によって可能ならしめる一方、そのベースになる工場経営を成り立せる手助けをしていこうとの思いを軸に猛進する賢治の世界は、「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニイレ」ずに突進する生き方しかなかったのでしょうか。一旦走り出したら猛進、ただ猛進。それが賢治持ち前の気質と言ってしまえばそれまでです。だが私は賢治をそうさせる本質は別にあったのだと考えています。
 「もうお叱りを受けなくてもどうしてこんなに一生けん命やらなければならないのかとじつに情なくさへ思ひます。」(政次郎あて書簡 222)。

 技師賢治が就任以来、とうとう東京出張で倒れるまでの、僅か七ヶ月間の動きを彼の書簡や手帳から拾ってみます。
(◎は賢治が工場に来た日 ●は賢治が病臥した日)

昭和6年
  2月21日 契約締結
2月22日 盛岡
2月23日 稗貫郡(湯口村 照井孫助氏)
2月24日 松川(契約金500円の引渡し。そして東蔵から当座の旅費として100円受領)
3月 2日 盛岡(県庁で広告発送先名簿書き写し〈約一千〉)
3月 3日 花巻町内(渡嘉商店)
3月 4日 盛岡(肥料監督官村井技師、平井技手、県農事試験場工藤技手と面談)
3月26日 松川(工員達と記念撮影?)、水沢
3月27日 黒沢尻、二子
3月29日 一関(萩荘村加賀長商店)
3月30日 松川
3月31日 石鳥谷(板垣肥料店)、水沢(菊田農機商会、中林商店、水沢農学校)
4月 1日 水沢(中林商店)、前沢(福地商店)
4月 4日 盛岡(県農事試験場)、紫波郡(煙山、不動、見前各組合
(4月4日〜5日 病臥)          
4月6日 黒沢尻(郡司商店、及川商店)、水沢(中林商店)前沢(福地商店)
4月 8日 盛岡、岩手郡(雫石、太田)
4月 9日 花巻町内(八木嘉商店)
4月10日 紫波郡(赤石、志和、水分各組合)
(4月11日〜13日 病臥)
(4月12日 父政次郎 松川行き)
4月18日 松川、仙台(泊)
4月19日 仙台(県農務課技師関口氏と面談)、小牛田(斎藤報恩農業館長工藤文太郎氏と面談)、古川(宮城県農事試験場古川分場長浦壁氏と面談)
4月21日 秋田(県農務課、県農会、県購聯)、角舘(同級生河原田次繁)(泊)
4月22日 大曲(秋田県農事試験場陸羽支場、各組合、農会訪問)、横手(山内村長清水川氏と面談)
4月28日 黒沢尻(江釣子、藤根、横川目)
4月29日 前沢
5月 1日 和賀郡(更木、二子)、黒沢尻(郡司商店)
5月 2日 盛岡(県農務課、農会、組合聯合会)
5月 3日 黒沢尻、和賀郡(藤根)
5月 4日 松川、仙台(県庁肥料検査官と用談)(泊)
5月 5日 仙台(宮城郡農会)、石巻、河南町(広淵沼開墾地)、小牛田(斎藤報恩農業館)
5月 6日
〜7日
宮野目、八幡、矢沢、更木、二子
5月 8日 松川
5月10日 小牛田(斎藤報恩農業館)、仙台(泊)
5月11日 仙台(県庁農務課、斎藤報恩会、宮城郡農会)、岩沼(鈴文商店) 夜関口氏と面談(仙台泊)
5月12日 小牛田(小牛田肥料会社、斎藤報恩農業館)、築館(栗原郡農会)
(5月16日〜25日 病臥静養)
※病臥中でありながら書簡、電話、電報を発している。
5月30日 盛岡(高農村松舜祐教授と小野寺伊勢之助教授訪問、市内米穀店廻り)
6月 1日 水沢(中林商店)
6月 2日 花巻(東蔵との金策協議)
6月 4日 盛岡(山口活版所〈搗粉広告印刷発注〉)、滝沢(岩手県種畜場)、厨川(岩手県種馬所、種馬育成所)
6月14日 松川
6月18日 盛岡(県商工課〈北海道博覧会内容情報入手のため〉)
6月30日 盛岡(県商工課〈北海道博覧会見本納入〉)
7月 1日 盛岡(市内商店まわり〈精米用搗粉需要調査のため〉)
7月 2日 盛岡(同上)
7月 4日 盛岡、日詰(商店まわり〈精米用搗粉需要調査のため〉)
7月 5日 水沢(中林商店)、黒沢尻(各店巡訪〈精米用搗粉需要調査のため〉)
7月12日 稗貫郡(八幡、石鳥谷)
7月17日 花巻(東蔵と協議〈小岩井出張の帰途、不況打開策〉)
7月18日 稗貫郡(湯本〈石灰施用地区巡覧〉)
7月25日 水沢(中林商店)
7月中頃〜8月12日 花巻自宅で壁材料サンプル作成に熱中
8月31日 稗貫郡(湯本、湯口)
9月 1日 稗貫郡(八幡)
9月 2日 稗貫郡(石鳥谷)
9月 7日 盛岡(肥料展覧会諸準備)
9月 8日 盛岡(肥料展覧会諸準備)
9月 9日 盛岡(肥料展覧会諸準備)
9月10日 盛岡(肥料展覧会諸準備)
(9月11日〜12日 (肥料展覧会<9月11日〜15日開催>疲労のため出盛出来ず)
9月13日 盛岡(肥料展覧会)
9月14日 盛岡(肥料展覧会)
9月15日 盛岡(肥料展覧会)
9月16日 盛岡(肥料展覧会片付け) 
9月19日 小牛田(小牛田肥料会)社、齋藤報恩農業館)、利府(農会)、仙台(宮城県庁農務課)(仙台泊)
9月20日 水戸(農事試験場)、東京(諸店巡訪)、夜激しく発熱重態におちいる
(9月20日〜27日 東京にて病臥(家族宛遺書、東蔵宛状況報告書簡を記す)
(9月27日帰郷病臥 2年後の昭和8年9月21日亡)

 車社会の現今からでは、およそ想像も出来ないほどきびしい交通条件下にありながら、病みあがりの賢治が資料各種を手に歩き回った軌跡がこうだったのです。これで倒れなければ不思議というほかありません。黒丸印で示したところが疲労のあまり床に臥した日なのですが、これでは家族がハラハラするのも当然なことでした。走っては倒れ、また立ち上がっては走り、その繰り返しが終に再起不能の状態を招く結末に至らせてしまう。重いサンプルや宣伝広告類を携え、ハーハー苦しそうな息づかいをしながら歩き回るセールス中の賢治のスガタに直接出会った知人が「全く気の毒で仕方なかった」と回想を述べておられたとのこと。「か弱なる我が身」を鞭打ち、「海千山千」の商人相手に「なめとこ山」の小十郎を思わせる屈撓経験にさいなまれ、疲れ果てた身体を引きずるように帰ってくる賢治を迎える家族の身にすれば、心配の重みにつぶされそうだったことでしょう。
 九月十九日、東京出張で家を発つとき、母イチさんが賢治の体を心配してやめるよう説得したが「大丈夫だから」ときかないで出かけたのだったが、賢治の「兄妹印手帳」には、その日の体温を「37.2」とのメモがありました。微熱をもったまま出かける賢治の体調を母イチさんが心配して引き止めようとするのも当然であり、母イチさんの胸騒ぎといえましょう。