■石灰の残した文化遺産002 宮澤賢治と炭酸石灰(第2回)

‥‥この土を この人たちが この石灰で‥‥
伊 藤  良 治

1.賢治と東蔵の出会い

 大正13年に東北砕石工場を立ち上げ、それ以来の14年間、専ら経営に当たってきた工場主東蔵が当時の回想手記を遺しています。「炭酸石灰工場の建設」と「裸一貫の石灰事業」の二綴りがそれです。ちょっとそれを、覗かせていただきます。そこには東蔵の個性丸出しの筆致で工場経営の経験が語られています。

自称「裸一貫」の東蔵が、何とか創業にこぎつけたこと、小岩井農場以外の市場開拓に苦しんできたこと、経営資金のやりくりにのた打ち回ったこと、偶然の出来事が重なってフレットミル(粉砕機)を入手し石灰細粉製造が可能になったこと、宮澤賢治を技師に招いて飛躍的な販売を得たこと等など、その一つひとつの雰囲気が短いながら率直に語られていて当時のイメージを鮮明に浮き立たせてくれます。

そしてまた文字どおりに「裸一貫」の東蔵が、よくもまあ14年間の長きにわたる工場経営を、こんな苦しみを背負いながら歩んできたと感じ入らざるを得ません。そして今更ながら、地下資源(石灰岩)開発事業に心血を注いできた東蔵と東北砕石工場の足跡なしに、現在の「石灰産業の町 東山」はあり得なかったのだと確信させられるのです。
 とは云っても工場経営に不可欠な資金のやりくりに苦しみつづけてきた本人東蔵の身にすれば、資金を持たない「起業者」の苦しみはたっぷり過ぎました。いったいにして先駆者の苦労というものは、そういうものだと云えるのかも知れません。石灰王を夢見て起ちあがった筈の東蔵が万策尽きはて、終には「士族の商法」(生活のためになれない事業を起こして失敗したことをいう)だったと回想録に記述するまでに至るのです。しかし先代を引き継ぐかのような所謂「二代目、三代目」事業所が次々と東山町に登場、今の石灰産業の中枢を担うことで「石の町 東山」がなりたっていきます。
そしてまた工場主東蔵が偶然のことから宮澤賢治に出会い、爾来4年間、強力な援助を受けたことが機縁となり、結局「賢治ゆかりの地 東山」としての現在があるのも、これまた「二代目、三代目」のことだと云えましょう。「歴史のおりなす不思議な業」とも云えましょう。

◇接触のきっかけ

 さて宮澤賢治と東山町との関わりは、昭和4年に始まります。
「そのころ花巻の渡嘉肥料店から前年2車の注文がありましたが、昭和4年には一車の注文もなく、東蔵が花巻に出向いてその事情を尋ねると、宮澤賢治という方がいてこれまで肥料設計の世話をしていたのだが、今病気で休んでいるため注文がなくなったと知りました。」(東蔵長男 鈴木實著「宮澤賢治と東山」)
羅須地人協会時代の賢治が花巻近辺のあちこちに肥料相談所を設け、農民個々の肥料設計相談を無料でおこなっていたとき、石灰岩抹(今で言う炭酸石灰・タンカル)の施用を奨めていたことは、残された多くの設計書(施肥表)がそれを示しています。ところが昭和3年8月、彼の設計した稲作の成育を心配して、夜も眠らず風雨の中を東奔西走したあげく風邪から肋膜炎になり、帰宅後病床についてしまいます。そしてその時点から肥料相談の機会が絶え、石灰岩抹の買い手もなくなり、東北砕石工場への注文もなくなっていたのでした。今年も注文があるだろうと待機していた東蔵が、このような経過で「肥料の神さま」といわれる宮沢賢治の存在を知り、早速その足で賢治宅を訪れるのでした。ときは昭和4年の春というだけで、おそらく4月末から5月頃だったと思われます。
 その東蔵の賢治宅初訪問の様子を聞きとった鈴木實(東蔵長男)が著書「宮澤賢治と東山」にこう記述しています。
 「当時賢治は面会謝絶中でしたが、政次郎様が出てこられ『賢治は五分間会いたいと云っています』と病室に案内されました。賢治は寝台から下りて服装を直し、面接をされましたが、だんだん話がはずみ、かなりの長い時間話し合いました。賢治はかねがね肥料の講義には、窒素、燐酸、加里の三要素に石灰も加えていたといわれます。そしてこれは酸性土壌の改良には欠くことのできない重要肥料で、自らも宣伝しながら土地改良に努力しておりましたので、大いに関心が高まったためでしょう。」
面会謝絶中の賢治が東蔵を相手に長時間話し合ったその内容には、自己紹介を兼ねた東北砕石工場経営の経過と実状に加え、石灰肥料の宣伝広告作成に必要な科学的な基礎知識の伝授があったようです。
そしてこの初対面の場で賢治から直接教えを受けた東蔵は、早速「石灰石粉の効果」と名づける広告の作成に取りくんでいきます。だが専門知識の乏しい東蔵では容易なものではありません。そのため賢治に何度か教えを乞うています。昭和4年11月20日付けの賢治書簡では、アルカリ性・酸性の基礎知識、硝酸菌の解説等、同年12月の書簡2通では、東蔵作成広告文案「石灰石粉の効果」に見られる間違いの訂正や補正、また金肥連用の悪副作用、酸性土壌についての解説、石灰の肥料効果を発揮させ得る粒径や粒形の具体図示、炭酸石灰施用のポイント、但し鉱毒防除にはならないこと、石灰の間接肥効に関する情報等々が東蔵宛に書き送られてきます。盛岡高等農林学校で「農芸化学」を学んできた賢治からの回答内容は東蔵にとって貴重な情報源でした。花巻における「肥料の神さま」賢治は、東蔵にとってもまた「神さま」だったにちがいありません。

◇ 挿話 宮澤清六著「兄のトランク」から

その前後の事情を、賢治ご令弟宮沢清六氏著書「兄のトランク」からも見てみましょう。
昭和四年の春、朴訥そうな人が私の店に来て病床の兄に会いたいというので二階に通したが、この人は鈴木東蔵という方で、石灰岩を粉砕して肥料をつくる東北砕石工場主であった。兄はこの人と話しているうちに、全くこの人が好きになってしまったのであった。しかもこの人の工場は、かねて賢治の考えていた土地の改良には是非必要で、農村に安くて大事な肥料を供給することが出来るし、工場でも注文が少なくて困っているということで、どうしても手伝ってやりたくて致し方なくなった。そのため病床から広告文を書いて送ったり、工場の拡張をすすめたりしていたが、だんだん病気も快方に向かって来たので、その工場のために働く決心を固め、昭和六年の春からその東北砕石工場の技師として懸命に活動をはじめたのである。」

 このような書きぶりで、兄賢治と工場主東蔵の初対面の様子が記されていますが、東蔵の人柄、語り口、経歴ににじんでみえる彼の生き方などに触れた賢治が「全くこの人が好きになってしま」い、それだけに止まらず工場経営を「どうしても手伝ってやりたくて致し方なくなっ」ていきます。そのことに関連して想い出させられることがあります。かねてより賢治はイーハトーブ(岩手県)の土壌は酸性が強く、石灰施与による土壌改良が必要だと考えていました。
 だが花巻農学校教師になってからの賢治にとって、その思いは単なる思いに止められなくなっていきます。授業で生徒に呼びかけること自体が、自らの実践課題となってはね返っていくのでした。だからのことでありましょう、北海道修学旅行の統導者となった賢治がその復命書中に「酸性土壌改良唯一の」石灰岩抹を「早くかの北上山地の一角を砕き来たりて我が荒涼たる洪積不良土に施与し、草地に自らなるクローバーとチモシイとの波を作り耕地に油々漸々たる禾穀を成ぜん」と、筆勢するどく記述しています。ですから東蔵との出会いの機縁から、賢治自身がとり組むべき実践課題を石灰岩抹による酸性土壌改良への貢献にありとし、その肥料価値を広く認知させる役割を自らが荷うべきと直観したのではないでしょうか。病癒えてからの進路を思い巡らしていた賢治にすれば、まさにそれは「あらたなるよきみち」(賢治文語詩稿)の発見でした。 「工場でも注文が少なくて困っている」と聞けばなお更のこと、「どうしても手伝ってやりたくて致し方仕方なくな」っていく賢治でした。そしてそれは生石灰でも消石灰でもなく、石灰石を細かく砕いただけの石灰岩抹・石灰石粉、今の商品名「タンカル」を指しています。その方が田畑や牧草地、果樹園に有効で安上がりだと、その施用を生徒にも奨めていた賢治でしたが、その後の羅須地人協会活動でも前項のような教材絵図(No.50)を作って分かりやすく説き明かそうとしています。

5 接触の深まり
◇「貴工場への献策」

 さて前記「兄のトランク」中の「どうしても手伝ってやりたくて致し方なくなった」賢治が、昭和五年はじめ東蔵宛に「貴工場への献策」と題する長い書簡を書き送りました。受けとった東蔵は大喜びです。これまでの東蔵依頼による広告文作成に係わる学術的な情報提供とはまるっきり次元が異なっていたからです。そこには工場経営それ自体に係わる賢治独自の献策に加え、経営参加にも前向きな賢治の心情を見せてくれたからです。
 では、この「献策」の内容はどんなものだったでしょうか。
@ まずはじめに、それまで工場で使っていた石灰岩抹、石灰石粉という商品名呼称を「肥料用炭酸石灰」に改めたらどうだろうか。一般購買者の理解を拡げるため「充分に購買欲を刺激し、且つ本品の実際的価値を示す名称だと思う。「炭酸石灰といえばいわゆる薬用の沈降炭酸石灰のやや粗なるものという感じで、どこか肥料としては貴重なものでもあり、効き目もあるという心持ちがいたします。法律的にもこの名称は差し支えあるまいと思います。何分石灰岩は炭酸石灰が大部分なのですから」と記されていた。
 東蔵は早速、製品名を「石灰石粉」から「炭酸石灰」と改めました。きっと胸はずむ思いだったことでしょう。……今は略称「タンカル」になっている「炭酸石灰」ですが……
A 販売価格について。炭酸石灰は消石灰の製造工程に比べると生産費が廉くつくことになるが、微細な良いものをつくるとなるとそうはいかない。だから消石灰との競争に対応するには、粒子の大きさと篩い分けの有無で区分けし、それぞれの販売価格を設定したらどうだろうか。そして賢治は「勿論多量に売るため、社会奉仕のためにどしどし廉くされるのは重々願うところであります」と書き足します。低価格におさえて農家が容易に入手できるようにしたい。だが一方、工場経営自体をも成り立たせなければならない。ですから賢治の胸中には、単に消石灰との競争に耐え得る価格操作次元での提言だけではなく、安価な炭酸石灰を、貧しい農家でも入手でき、豊かな土づくりに役立ちたいとする農村への深い思い入れがあったからのことではないでしょうか。
B 品質について。原石中の石灰含有量や不純物の性質にも触れているが、特にも粒子の微細度と形態に賢治はこだわります。「消石灰との得失は一に粉末の微と価格の廉によりて定まり候」(別書簡)で、製品のポイントをそこに置いていたのです。
C 販路の開拓について。東北砕石工場は「実に東北に最たる」位置にあるが、農業の進歩につれてだんだん競争者も出て来ることは覚悟しておいた方が良い。そうなると炭酸石灰の販売競争は運賃の額、即ち距離の問題がポイントになるから、貴工場の位置からして宮城県の大部分、岩手県の南半、並びに山形県北半への宣伝に力を入れるのが、先を見越した得策だと考える。「将来の競争者としては花釜線の鱒沢駅(恐らくは十年後)横黒線の仙人(これは大敵ですが恐らくは五年後)八戸線の鮫付近、東北本線の福岡付近、福島県の南部のある地点位」だと、賢治は地質図と鉄道運輸図をにらみながら予測しています。
D その上「他の競争を許さないような」新肥料を作成し「その製造権を登録したい」。また製品の包装に商標をつけ、東北砕石工場製品だと表示する必要がある。
E また貴工場の設備で出来る他の事業として「大理石や一般飾り石の研磨の事業」を挙げ、「今後洋風建築の発達と一般好尚の進歩に伴って十分間に合うと思います。原料は大船渡線には相当あるはず」と付記します。
 (この献策が後日、彼自らの考案製作による壁材料サンプルをトランクに詰めて上京し、ついに再起不能の重態におちいる結果につながるとは、その頃誰も予想できないことでしたが、時代の先行きを的確にとらえた「献策」だったことは確かです。)
F 最後に賢治は販売戦術として「貴工場では消石灰も生石灰も作られるか扱われるかしていらっしゃるようですが、これは実に良いと思います。三種の石灰を持っていて、特に炭酸石灰が実情に適するから使ってくれというのは大いに強みです」と書き足します。確かに当時の砕石工場では、焼き窯で生石灰を作り、それに水を加えて作った消石灰も製造販売していました。その経緯を逆手につかい、炭酸石灰の販売を伸ばす足場にしていこうとする賢治の編み出した宣伝戦術がこれでした。
 事実、肥料用炭酸石灰の宣伝文中に「当工場でも最初は生石灰を製造していましたが、小岩井農場からの御用命を機会とし、この(炭酸石灰のこと)製造を始めてから、年一年需要の増加と、技術家方のお勧め外国の事情に刺激され、いろいろの困難と闘って専心良品の作出に没頭いたし、目下充分自信ある製品ができます」と広告に記すようになっていきます。


 ちなみにこの「献策」に見られる内容及び表現は、賢治が文学者や宗教家、科学者や農民の友として見られてきた視点からでは、およそ想像できない実業人としての側面の発見と云えましょう。さすが商家に生まれ育った賢治が構想する戦略だとも云えますが、あれほど商売を嫌っていた賢治が、このような積極的な構想を提起してくるのはどうしてなのかと不審に感じる面もないではありません。ひと言に尽くせば、炭酸石灰事業へのかなりな思い入れがこのように賢治を動かしたのだと、ひとまずここではおさめておきます。

◇経営参加意欲の高まり

 賢治が病中にあって手がけた最初のお手伝いが、広告「石灰石粉の効用」作成をめぐる専門的な問い合わせへの回答、そして賢治自らの「貴工場への献策」とつながっていくまでは前述のとおりです。それ以来、賢治・東蔵両者の書簡往復と面談の頻度がますます増大、親密度が加速を帯びていき、その結果、東北砕石工場技師宮澤賢治が誕生することになるのですが、その成り行きを東蔵宛賢治書簡から見ていくことにいたします。
・昭和5年1月頃(推定) 東蔵宛「私も数年来調査して来たことでもありますので、 何かお役に立てば甚幸甚であります。」
・同年4月13日 東蔵宛「実行の際はご不審の点ご遠慮なくご照会願上候」
・同年4月19日 「貴簡並びに広告文拝見誠に結構に存じ候…但し…一応校正致し置き候」
・同年6月30日 「ご送付の広告類拝見いたしました。……次回には裏面の表類多少整理し諸権威者の著述抜粋を加えたいとも思いますがそれは今冬のことにいたしましょう」
・同年9月2日 「若し御事情宜しければ執れかの一地方御引受各組合乃至各戸名宛にて広告の上売込方に従事致しても宜敷其辺の御心持伺上候」
・同年9月14日 「若し必要も有之候はば小生も一分御協力申上度御座候
・昭和6年1月12日 「小生二月二十日より仙台にて仕事致すことと相成貴工場の宣伝販売等地方を画して分担致しても宜敷之亦御考慮置願上候」
・同年1月22日 「次に小生分担の仕事の儀も必ず奮闘致度候間左様御了承願上候」
・同年1月 下書「…その節お打合せの通り二月下旬仙台へ参り貴社製品販売並に宣伝致す様準備罷在候処右に先だちて仕事の範囲等為念契約致置度趣父より申出有之候間左記事項充分に御審査の上適宜貴方のお考にて御改訂御申出願上候
  一、仙台に於る事務所は
     東北砕石工場仙台出張所の看板をかけ遠方宣伝の際は必要に応じて
     東北砕石工場仙台事務所の名義によること
  二、小生に対して東北砕石工場技手又は技師の辞令を交付し小生は
   イ、石灰岩抹を主原料とする製品の改良及発明は総て之を貴工場に交付し
   ロ、海外及国内の諸学説及事情は鋭意之を調査して工場の発展に資すること

 賢治の工場経営参加意欲が日を追って強まり、その具体的な参加の仕方にまで及んでいく推移がこれらの書簡からうかがわれましょう。